南スーダン、独立後:「紛争の後」の飢餓と絶望
  
アントニー・ローべンスタイン
 
グローバルリサーチ2016.4.14
テーマ:貧困と社会的不平等、米NATO戦争計画
 
ビデオ:南スーダン創設の背後に外国の介入
 
 
南スーダンの町ベンティーウに飛行機で入ることは不安に駆られる。壊れた飛行機の正面のコクピットの窓は割れ、機体は汚れた滑走路のそばに駐機する。壊れた胴体の周りには長い緑の草が生えている。今は国の正式な軍隊となったが、元ゲリラ活動をしていた南スーダン人民解放軍(SPLA)の兵士たちは、、滑走路の周りのブリキ小屋に常駐している。若い兵士達は制服を着ている者もあるが、多くは制服を着ておらず、AK-47銃で武装している。彼等は退屈そうにのろのろ歩いている。遠くで砲撃が聞こえる。空は灰色の雲で覆われどんよりしている。
 
ベンティーウは、近年の南スーダン史の中で残虐この上ない特異な存在である。2014年、町は大虐殺に見舞われた。内戦で最悪の虐殺の一つである。反乱軍は何百人という市民を殺し、公共放送を使って異なる種族の女性をレイプすることを奨励した。その後「殲滅作戦」を自慢する声明を発表した。
 
それは2015年7月、ちょうど和平合意の署名1ヶ月前であった。私はスーダンの首都ジュバに住んでいて、ほとんどの年月をフリーのジャーナリストとして働いていた。私のパートナーは国際的NGOに雇われている。ジュバは拠点にするにはやっかいな場所である。治安が悪く、経済は崩壊し、夜の外出制限や犯罪の増加で私達の行動は縛られている。夏の気温はたいてい45度を超え、水不足はあたりまえである。
 
南スーダンは陸に囲まれ、国境はウガンダ、中央アフリカ共和国、エチオピア、ケニア、コンゴ民主共和国、そしてスーダン民主共和国に接している。隣国と同じように我が国も植民地主義の後遺症に耐え続けている。20世紀にイギリスの権益によって占領されてきたからだ。大部分の土地は沼地か熱帯雨林だ。我が国は野生生物の、世界で最も大きな生息地の一つだ。
 
私はのろのろしたロシア製の国連ヘリでベンチウまで旅をした。空から燃え尽きた建物が沼地に点在しているのが見える。何万という牛があちこちに群がっていて、それを地元民が守っている。家畜への襲撃が南スーダンでは風土病なのだ。つまり政府軍や民兵が様々な集団を飢えさせるために使う野蛮な戦術なのだ。牛は国の心臓である。牛は食べ物として使われるだけでなく、例えば結婚(婚資として)や喧嘩の後の償いのように文化的風習のためにも使われる。しかし長年にわたる戦争で多くの者はこの貴重な必需品をなくしてしまった。
 
ジュバからの旅は3時間かかった。私はインド人とルワンダ人の休戦監視者と一緒だった。南スーダンには12,500人の制服組の国連平和維持軍がいる。構成国はカンボジア、オーストラリア、ジンバブエ、イェメンなど一連の国々からなっていて、世界で一番大きな国連任務の一つになっている。
 
たった一つしかないぬかるんだ道路は、トラックや車が捨てられ、空港からベンティーウの町や国内難民用に膨らんだ国連基地まで続いている。戦闘がこの2年あまり続いたので、キャンプで保護を求める人の数は、増加している。いま約12万人の市民が、元々その半分以下の人数の居住用に建てられたところに暮らしている。国連代表部、国際NGO、人道支援グループなどほとんどあらゆるところが、食料支援や住宅建設やリハビリや医療支援にあたっている。
 
国連難民キャンプは、ジュバでの暴力事件が起きたすぐ後の2013年12月に設立された。
その暴力事件は、主にディンカ(Dinka)民族グループを中心とするサルバ・キイール(Salva Kiir)大統領派と、主にヌエル民族グループからなるキイールの元副大統領リエク・マチャール(Riek Machar)に従うものたちの間の戦闘であった。2011年の独立の時は双方が公式に新しい国家に関わっていた。しかし協力は続かなかった。緊張がエスカレートし、キイールもマチャールも更なる権力を望んだからだ。南スーダンが今日苦しんでいるのは、これらの戦闘員が、両者とも独立のため数十年戦ってきたが、戦闘員から民主主義者に変わることができないからだ。戦闘が2013年に始まってから、その戦闘は国内の広範な地域を巻き込み、地元でも国際的にも独立当初に感じられた希望を打ち砕いたのだ。
 
実際に世界で最も新しい国家は崩壊したのだ。「ここでは多くの殺人や虐待や器物破壊が行われた。それは膨大な規模である」と匿名の国連上級事務官が難民キャンプで私に語ってくれた(ベンティーウの国連当局はメディアに発言することがほとんど許されていない)。数万人が殺され、そして数百万人が国内外へ追いやられた。南スーダンに住んでいる1200万人の中で、70%が深刻な飢餓に直面している。経済は衰退し、政府勢力と反政府勢力は絶えず石油資源を求めて絶望的に闘っている。だから先頭の連続で、教育や保健には戦闘の連続で対応できていない。2014年政府は元ブラックウォーターCEOのエリック・プリンスと彼の新しい会社フロンティア・サービスグループを雇い、石油生産を上げようとしたが、うまくいっている形跡は全くない。
 
ベンティーウは人間性さえ破壊され、喘いでいる。難民キャンプはどこも同じようで、中央アフリカ共和国からコンゴまで他のアフリカ諸国の戦闘で生じた難民キャンプと変わらない。しかしこの新しい国家は違うと考えられていた。南スーダンは非常に大きな希望に包まれて、ほぼ5年前に誕生した。アフリカ諸国の多くが求めることができない何かがあった。しかし国は分解した。ベンチーウの難民の多くが疲れ果て、困惑し、国が難民やその子供たちにとって再び危険になるのではないかと不安に駆られている。彼らは2・3日より先を考えることができない。そしてより良い未来への希望は、戦闘や民族対立によって消えてしまった。しかし今度は事態は違っている。つまり緊張は歴史的でも文化的でもなく、むしろ恐ろしい計画を持った指導者によって煽られたのだと私は聞いた。
 
ベンティーウの難民キャンプは見渡す限り遠くまで広がっている。竹やビニールシートで作られたあばら屋の近くには、小さな露店がスリッパ、粉ミルク、衣類、壊れた携帯、グルコース・ビスケットを売っている。4月から11月までの雨季には難民キャンプの大部分が泥や瓦礫で埋まってしまう。初期のキャンプでは洪水はありふれたことで、住民は腰まで水に浸かり、自分の家で溺れ死ぬ子供もいた。国連は急激な難民増加に対応できていなかった。一人の国連職員が言うには、状況は「予測がつかない」、戦争がいつなんどき急速にエスカレートするかは誰もわからないからだと。また国連は2015年の襲撃によるレイプを無視し、その責任をとっていないと、カナダのメガン・ノーベルト(Megan Nobert)によって訴えられている。襲撃したと言われる者は国連の下請けをしていたが、当局は適切な調査をしなかった。
 
私は初期の難民キャンプの写真を見たが、非常に変わってしまったことがわかる。国連と国際機関(IOM)は難民の状況を改善するために何百万ドルという費用と、何千時間を費やしてきた。土地がかさ上げされ、上下水道や新たな木造建築がつくられた、はっきりした形跡がある。古いものとくらべられないほど汚れもなく散らかってもいないのだ。
 
ある家で私はジュリア・ジョンに会った。彼女は25歳の女性で、夫と3人の子供だけでなく、彼女の妹やその子供、そして彼女のお母さんと一緒に住んでいる。整頓された空間には、二つのシングル・ベッド、小さなテーブルと敷物、プラスチックの椅子、
壁飾りとして掛けられた服があるだけだ。ジュリアは家に帰りたいと言うが、「敵」のそばで暮らす恐怖も私に話す。彼女は2014年1月の戦闘から逃げて、それ以来難民キャンプにいる。「私は平和を希望します。でも望み薄です」と彼女は言う。
 
ジュリアの元の家はキャンプからわずか2・3キロのところにあるが、彼女にとってはずっと遠くに感じられる。毎日彼女が国連キャンプを出て薪を探しに行く時、レイプの恐怖に直面し、日常的に兵士は誘拐したり襲ったりして女性が消え去っている。ジュリアは危険な外出を避けるために、国連やNGPに薪をキャンプに供給してくれるように頼んだが、これまでやってくれてたことはない。
 
その地域で進行中の戦闘の結果、毎日およそ200人が新たにベンティーウのキャンプに流入して来る。政府軍兵士やその民兵によってヌエル族に対して行われた恐ろしい暴力行為の証言を、私は生存者から聞いている。去勢された少年の話や公然と集団レイプされた女性や少女の話もある。ニャドゥオップ・マチャール・プオット(Nyaduop Machar Puot)は5人の母だが、彼女は最近コッチ(Koch)郡の彼女の地域でトゥクルズ(tukuls)(伝統的な南スーダンの小屋)の中で生きたまま燃やされた女性と子供たちを見たそうだ。彼女は自分の家を焼かれ、牛も盗まれたので家族と共に逃げなければならなかった。
 
昨年7月ヒューマン・ライツ・ウォッチはある報告を発表したが、それは一つのユニティ(南スーダンの28州の一つ)で政府や民兵に暴行された170人以上の犠牲者と証言者とのインタビューだった。その報告の結論は、集団レイプ、殴打、殺人、追放はその地域をおいて何十年にも渡って放置した結果であり、説明責任や裁判または適切な調査がなされていない結果であるとしていた。またこういう遺物は南スーダンにおける更なる犯罪を煽り続ける事になると警告している。
 
ジュバに戻ると、群衆が南スーダン建国4周年記念式典に集まっている。現地の人たちは太陽に輝く色とりどりの服装やフォーマル・スーツを着て歌い踊っている。ウガンダ大統領ヨウェリ・ムセベニ(Yoweri Museveni)の話を聞いている者もいる。彼は唯一の外国要人で、南スーダン問題に介入する「部外者」に不吉な警告を発している。彼はイギリスやフランスやポルトガルのような旧植民地支配者がアフリカに苦難を与えたのだと糾弾する。そして民族主義や分離主義は間違った考えであって退けられるべきだと主張する。 
 
ウガンダは、2013年の紛争が勃発して以来南スーダン政府を支援するために数千人の部隊を派遣してきた。とはいえ、これらの部隊は2015年に一部を残してほとんど撤退したが。イスラエルや中国も武装して政府勢力を支援している。一方スーダン大統領オマル・アル=バシール(Omar al-Bashir)は反政府勢力を支援している。南スーダンは代理戦争となっている。スーダンは、絶対に独立させたくないので不安定化工作を続けている(貴重な石油の多くが南スーダン国境沿いにあるからなのだ)。イスラエルにはアフリカの独裁国家を支援してきた長い歴史があり、中国は南スーダンの資源に接近する機会を狙っている。誰もが汚れていて、干渉することを狙っている。これは帝国主義の現代的な姿だ。外国軍隊は、外部から支配されている国を占領する必要はない。
 
ムセベニのスピーチに続いてキール大統領は、長年の紛争に協力してくれたことにたいして「友好的なウガンダ市民」に感謝の言葉を述べた。彼はいま国が直面している問題にほとんど有効な解決策を出していない。
 
行事の雰囲気はかき消され、だれも祝う者がいない。人々は見放され、なぜ独立の大義は薄れてしまい、不安にかられているようだ。マーチング・バンドさえ庶民をかき立てることができない。私は疑惑の目で見られ、サングラスをかけた熱心な保安員達は、サングラスをかけた外国人達にサングラスを取るように求めてくる。物売りの女性たちはナッツや国旗を売っているが、国旗の多くは陽に色あせている。おびただしい水のペットボトルが捨てられて汚れた地面に散らかっている。
 
南スーダンの現在の危機は全く人工的なもので、しかも国際支援者たちは国が出している警告サインを無視することを選んだ。解放運動のただ中で民主主義の欠落に呆然とする。よく知られた指導者たちの腐敗は政治的な理由で見過ごされた。
 
国家主権は「慈悲深い」権力者たちによって南スーダンに簡単には与えられなかった。南スーダンは抑圧的な北の隣人に対する独立の闘いを何十年もしてきた。そして国際支援を受けて闘ってきた。私は、ハルツーム(Khartoum)からの分離を支持しない南スーダン人に会ったことはない。彼らはみな自由を得るために何十年にもわたる流血や苦難を経験してきた。そしてだからこそ多くの南スーダン人が今日、自分の国の分裂に絶望しているのだ。私がジョングレイ(Jonglei)州のボール(Bor)を訪れたとき、一人の男が私に語ってくれた。「みんな」戦争の犠牲者だ。「私達」はみんな犠牲者だ。私達は平和を望んでいるのだ、と。
(訳注:ハルツームKharutoumはスーダンの首都、スーダン政府のこと)
 
スーダンは1956年にイギリスから独立を勝ち取った。しかしその後の何十年間はハルツーム(スーダン政府)の指導の下、元植民地支配者と似たような考え方を南に当てはめるのを見てきた。1966年の植民地主義に関する古典的小説『北部への移住の季節』でスーダン人作家タイーブ・サーレフ(Tayeb Salih)は見事にこのやり方を文章にまとめている。「彼等は彼等がするのと同じように考える人々を残したのだ」と。
(訳注:タイーブ・サーレフ(Tayeb Salih)。1929年、スーダン北部に生まれる。ロンドン大学で学び、BBCに勤務後、カタールの情報省の長官を勤める。パリのユネスコを経て、カタールのユネスコ事務所の代表となる。植民地主義やジェンダーの問題に焦点を当てた多数の小説をアラビア語で書く。代表作は「The Wedding of Zein」で、映画化もされ、1976年のカンヌ映画祭で賞をとった。本作品は1969年の出版。)
何十年にもわたるハルツーム(スーダン政府)と南の住民との間の内戦が、土地や石油、体面や名声をめぐって戦われた。1983年と2005年の間に200万人が死に、400万人が家を追われた。つまり当時の大統領ジャール・ニメイリ(Jaafar Nimeiri)がシャリーア法を導入した時から、和平合意がついに調印されたときまでの間だ。SPLA(スーダン人民解放軍)もスーダン軍も広範囲に虐待を行った。ヒューマン・ライツ・ウォッチが1994年に行った報告では、「SPLAの指導部は彼等自身の人権問題に取り組まねばならず、彼等自身の虐待を糺さなければならない。たとえ彼等が自治や分離の勝利を獲得しようが、将来にわたって種族的または政治的理由で戦争を継続するリスクを冒すことになる」と不気味な予測をして警告している。
(訳注:イスラム教徒の宗教的・世俗的生活を規制するイスラム法
 
今日、戦争のために南スーダン人のなかには根や睡蓮や草や葉っぱを食べて生きながらえている者もいる。暴行から逃れるために全ての家族が何日も汚い沼地に隠れざるを得ないのだ。ベンティーウでは多くの女性が、民兵の暴虐のことや、赤ん坊が彼女の目の前でどのように殺されたかを私に詳しく語ってくれる。これらの女性達はもう正義とか償いを期待していない。もちろん彼女たちは両方望んでいるのだが。最終的に国が平和になったら戦争犯罪の裁判に兵士達をかけるかどうか私が尋ねたら、その考えは空絵事だとと退けられた。
先の8月の和平合意は、南スーダン人とアフリカ諸国による共同法廷条項を含んでいる。それは国際刑事裁判所(ICC)の旧来の方法を避ける大胆なものである。つまり国際刑事裁判所はアフリカを疑惑の目で扱い、欧米諸国は犯罪を滅多に調査しないのだ。しかし南スーダンにはこのアフリカ諸国による法廷を作る政治的意図はほとんどない。なぜならそれを行う組織はアフリカ連合で、彼等自身が逮捕状を突きつけられる指導者からなっているからだ。これにはダルフール大虐殺のかどで告発されているスーダン大統領オマル・アル=バシャール(Omar al-Bashir)も含まれている。
(訳注 ダルフール紛争:スーダン西部のダルフールで2003年、    アラブ系政府に対抗し、黒人反政府組織が蜂起。アラブ    系民兵らが黒人の村を無差別に襲撃するなど対立が激化    し、約30万人が死亡した。紛争は未解決のままだ。     (2013-10-21 朝日新聞 朝刊 1外報) (コトバンクより)
 
悲劇的な歴史の皮肉で、南スーダンの指導者たちは、国連、欧米、人道支援グループと北の隣人とのやっかいな関係を真似ている。政府勢力は市民から食料を盗み、援助物資の引き渡しを妨害している。そして南スーダン政府が虐待をしているという申し立てに対して、国家主権に対する、欧米やアフリカの陰謀だとしきりに訴えている。それはばかげた考えであるし、少なくとも国が文書の上でだけ独立している状態であるというだけでなく、外国の支援なしでは国も国民も生き残ることが出来ない状態なのだから。
 
南スーダンでは、言論の自由にとっては不穏な時である。去年少なくとも7人の記者が国内で殺害された。犯人は誰ひとり見つかっていない。2015年、キール大統領はジャーナリストを彼の治世に危険だとして殺害の脅しをした。ジュバを拠点としている記者フランシスが私に語ってくれた。自分の仕事を自己検閲しなければならず、そうしないと仕事を得られなくなると。彼は死を恐れるわけではないが、批判的なジャーナリストであることは仕事を奪われるという厳しさが分かっている。
 
南スーダンは国家としてあらゆる面を機能させようともがいている。ハビブ・ダファーラ・アウォンガ(Habib Dafalla Awonga)は南スーダンHIV/AIDS委員会の計画調整委員会の委員長である。彼は信頼できる感染率データを得るのを戦争がいかに阻害したか、を私に語ってくれた。彼の評価では住民の約2.7%がHIV陽性反応であるが、正確な数を集める方法がない。それは恐らくもっと高く、特に性労働者と寝る兵士の間ではずっと高いだろう。これらの心配にもかかわらずアウォンガは欧米が「ゲイ計画を押しつける」と糾弾している。それは国際HIV/AIDS機関が男と関係する男や性労働者の保護を要求したからだ。
 
西欧映画、音楽、流行の文化が、同性愛のごとく人々を罪悪に導くというこの考えは、アフリカ中に広まっている。南スーダンでは同性愛集団は一般には知られておらず、公然と同性愛者として生きることは不可能である。エドワード・エメスト・ジュバラ(Edward Emest Jubara)は文化・青年・スポーツ省の現文化遺産長官であるが、彼は「男と男の関係は我々の社会では受け入れられない」と7月地元紙に語った。これは彼が7月オバマ大統領アフリカ訪問の際になされた「アフリカが同性愛差別をやめるべきだ」とのコメントに答えたものだった。オバマ大統領がこうした態度をとる理由は、アメリカの福音教会が隣国ウガンダにしているように、南スーダンを反同姓愛・反中絶計画を広める主要地域と考えているためだ。正確な人数は分からないが、アメリカの福音グループの数は増えていて、南スーダンで活動している。そして彼等のメッセージを受け入れる聴衆がいるのだ。
 
南スーダン問題は、一連の他の障害をも明らかにしている。国道の2%しか舗装されておらず、雨期に遠隔地にいくことはほとんど不可能に近い(支援団体は高価な国連飛行便に頼らざるを得ない)。今年、国連は各国政府から人道支援として13億ドル募集しようとしている。しかし他の多くの国が危機で苦しんでいる時には厳しい呼びかけである。アフリカはエボラ熱の勃発か、大量虐殺(「黒人の命」はここでは問題にならない)でなければ国際メディアから無視されているので、南スーダンはシリアにおける種族的・代理戦争やイラク、アフガニスタにおける米侵略後の混乱と比べると太刀打ちできない。アフリカは未だ未開発で暴力的で野蛮な暗黒大陸と安易に考えられている。まだ南スーダンは、ブルンジからギニア・ビサウまで平和を求めて苦しむ機能不全のアフリカ国家の長いリストに入っている。
 
私は南スーダンに拠点を置いて、南スーダン危機の特異性の検証と、そして他の近隣諸国の同じく恐ろしい情況との比較をせざるを得なくなった。首都ジュバで大多数のメディア通の市民は、国が国際社会からほとんど無視されて、そこでの紛争が深刻なものとして注目されていないことを知っている。犠牲者は人ではなく、名前もなく、使い捨て用品と見られている。しかしメディア通の市民が学んだことは、「国際社会」とは、普通ワシントンとその同盟国が望むものを意味する一般名称であるが、彼らは相争う派閥に圧力をかけることができないし、それを望まないということだ。また、オバマ大統領の焦点は中東における様々な紛争であることもメディア通の市民は知っている。そして南スーダン人はだれも米軍の介入を望んではいないが、多くの人はワシントンが現在の紛争解決にもっと積極的であることを望んでいる。
 
南スーダンにおける残虐性のレベルは私が報告した他のどの紛争より悪化していることは疑問の余地がない。パレスチナ人やアフガニスタン人に対する邪悪な攻撃は珍しくないが、南スーダンにおけるその規模と熾烈さは特に悲惨である。紛争遠くの地の出来事であることと、戦争犯罪に対する説明責任の欠如が市民に対する過激派の行動を悪化させた。レイプや殺人の生々しい描写を何度も何度も聞くが、私は心底、衝撃を受けた。
 
南スーダンの指導者や軍幹部は統治についてほとんど理解していないので、それが「腐敗という風土病」を引き起こしている。2005年のスーダンとの和平合意と2011年の独立の間に、ジュバ(南スーダン政府)は石油収入で120億ドル以上を得た。しかしこの大部分は保安部門の出費や給料にまわった。開発はあまねく忘れ去られた。
 
しかししばしば官僚の「正当化された」批判で無視されるのは、自己利益誘導型の外国勢力との共謀である。例えば中国国家石油会社は、東アフリカにおける主要な政治勢力となるために、独立前も後もジュバ(南スーダン政府)と繋がりをしきりに持ちたがっていた。しかし石油流通はほとんど地元民のためにならなかった。
 
2015年、中国はその経済的利益を守るために、南スーダンにおける国連任務遂行で1051人の戦闘準備部隊を派遣した。その他あまり議論されていない計画は、不安定な国家における中国の財政的「地位」を守ることである。これは北京のアフリカに向けた重要な方向転換のきざしである。今アフリカ大陸に少なくとも3000人の中国兵、船乗り、技術者、医療スタッフが滞在している。
 
『中国アフリカ計画』の編集長であるエリック・オランダーによれば、中国の「介入せず」という長年のイデオロギーは南スーダンで試されている。彼が問うていることは「アフリカにおける北京の最初の戦闘用軍隊の派兵と共に、中国が活発にジュバの国内政治にかかわるようになった和平プロセスは、どの時点で平和維持活動から逸脱し、別の国の内政に介入することになるのか」ということだ。
 
これらの政治的軍事行動は、紛争に苦しんでいる何百万の南スーダン人には関係がない。例えばワイでは約2万5千人が木の下や、かなり粗末な避難所で過ごしている。テントもない。女性や子どもは地面にじっと動かず座っていて、その周りを蚊が飛んでいる。簡単な治療や、油やモロコシの支給を待っているのだ。それは1980年代エチオピアの忌まわしいイメージを私に思い起こさせる。南スーダン中にこのような人々が何万といる。村は、支援グループにアクセスできないから、自分たちでやっていかなければならない。この数年間で飢餓のため何人が死んだか誰もわからない。だれもその数を数えていない。
 
これらのおぞましい現実は少なくともオバマ政権によって非難されているが、それはほとんどリップサービスにすぎない。7月オバマのケニアとエチオピア訪問の間、オバマ大統領は、キール大統領とマシャール副大統領を、自分の国を「絶望的暴力」へ引きずり込んだとして糾弾した。しかしオバマ時代はアフリカ中に(概して無視されたが)米国の重要な軍事的足跡を拡張をして、アフリカの最も残忍な独裁者の何人かとの関係を深めた。これがリビア、マリ、ギニア湾、その他で不安定化や虐待を引き起こす原因となった。
 
ニック・タースは『明日の戦場:アフリカにおける米国代理戦争と秘密作戦』という著作の中で次のように述べている。アフリカの54カ国の内49カ国はこの10年間で米軍が存在するか、米軍が何らかの関わりを持ってきた。それは間違いなく21世紀で最も大きな植民地計画の一つであるが、実際には誰もそのことを知らないのだ。南スーダンはこの計画の中心と考えられた。つまり南スーダンはアフリカ心臓部の頼れる従属国であり、そこからアメリカが大陸における中国の増大する軍事・政治力に挑む基地となっている。中国のインフラ整備と資金計画に対してワシントンは影響力を失ってきたが、何年か後に勃発した内戦以来、ワシントンにとって戦略的重要性も小さくなってきた。アメリカがインフラ建設の支援や人権侵害や国家の腐敗への対応に失敗したことが、南スーダンの現在の不安定化において決定的である。 
 
しかし2013年紛争が勃発すると同時に、ワシントンはシリアの内戦やイラクの分裂やISISの勃興に悩まされていた。何十億ドルもの政府支援が行われたにもかかわらず、間もなく南スーダン体制を無批判に賞賛することは控えられるようになった。一人の匿名の米国高官は最近次のように言ったようだ。「諸勢力は自分の国や庶民に全く無関心であり、それは修正しがたいものである」と。
 
この大惨事の責任がどこにあるかを判断するのはむずかしい。とくに南スーダンの独立を推進するのに何年も費やしてきたアメリカ人支援者の高官にとっては難しい。南スーダン指導者の適性や人権記録や彼等の新国家運営能力に関してはほとんど問われることは無かった。これには驚かざるを得ない。北京とワシントンは伝統的に頼れる独裁者と組むことを好むのだから。
 
1990年代半ば、アメリカ人活動家と政府高官の小さなグループが南スーダン独立に向けた行動を開始した。3人の主要人物は、スーザン・ライス(当時アフリカ担当国務副長官、現在オバマの国家安全保障アドバイザー)とゲイル・スミス(当時国家安全保障会議で、現在USAID米国国際開発庁の理事)とジョン・プレダーガスト(当時国家安全保障会議メンバー、すぐに国務省に移り、現在Enough Projectの共同創設者)である。俳優ジョージ・クルーニーは後にダルフールでのスーダンによる虐待に関して活動するようになった。恐らく南スーダンは有名人にとって大義となったことは間違いない。新しい国家建設を支援することは理想主義的で9・11後の世界で正当なことと思われた。
 
これらの人物の誰ひとり、自分が南スーダンで誰を支援しているか詳しくは分からなかった。アレックス・デ・ワールはタフツ大学の世界平和基金の専務理事で、スーダン問題の専門家であるが、私に次のように語る。
 
「南スーダンの指導者は、自分たちにはアメリカ政府の後ろ盾があり、その実動部隊である有名人活動家と共に、その国家連合体の統治を無視できると信じていた。SPLA(スーダン人民解放軍)は殺人をしても罰せられないことが許されていた。彼らには相手方が悪いと必ず言ってくれる支援者の合唱があったからだ。」
 
幸いにも変革の必要性を分かっていたものもいた。去年Enough Projectは「番兵(the Sentry)」計画を開始した。それは南スーダンやソマリアやアフリカの他の国々で暴力の財政的支援者を狙った計画である。
 
一方、ウガンダやコンゴ民主共和国の国境沿いイエイ南部の町で平穏が訪れたという錯覚がある。ダルフールやヌーバ山脈を逃れた多くの避難民がここに住んでいる。そしてほこりっぽい通りは比較的平和な感じがする。アメリカとオーストラリアの福音派の人々が「神の希望の家(His House of Hope)」を運営している。それは女性と子ども達のためのベット・エマン病院と平和調停協会(The Reconcile Peace Institute)である。どちらの組織も重要な仕事をしているが、暴力の散発的な勃発のためどこも安全ではない。市民は恐れ、政治家の言葉を信頼していない。
 
さらに全体的に言えば、南スーダンでは独立と共にあった希望はほぼ消え去った。現在、包括的で持続的な和平交渉が暴力を完全に停止させ、国のインフラや資源を発展させるという徴候は全くない。今年初めの国連報告は、内戦における、キール大統領もマシャール副大統領の両方の役割に制裁を加えるべきだという結論を出している。しかし一致した国際的圧力なしでは、暴力を止めさせることができず、責任ある裁判や南アフリカ型「真実と和解委員会」なしには南スーダンは紛争に巻き込まれたままの運命をたどることになる。
それらを断固として実行する人々が重要であり、2・3年前、彼らに新たな世界を約束した主要グローバル・パワーよりずっとましである。
 
アントニー・ローベンシュタインは独立ジャーナリストでガーディアン紙のコラムニスト。彼の最近の著作は『惨事資本主義:大惨事から殺人を作る』である。(Verso,2015)
英文:http://www.globalresearch.ca/south-sudan-after-independence-post-conflict-famine-and-despair/5520106
(訳注:ダルフール紛争)
国連が「世界最悪の人道危機」と呼ぶスーダン西部ダルフール地方の紛争は、2008年、発生から丸5年を迎えた。 紛争は03年2月に勃発した。アラブ系中心の政府に不満を募らせたダルフール地方の黒人系住民が「スーダン解放軍」(SLA)、「正義と平等運動」(JEM)など反政府勢力を組織して蜂起した。政府軍を支援するアラブ系民兵「ジャンジャウィード」の攻撃や病気、食糧不足などによる死者は20万人以上とされる。約250万人が国内避難民キャンプや隣国チャドの難民キャンプで避難生活を強いられている。 反政府勢力の一部と政府は06年5月に和平合意した。しかし、この合意に加わらなかったSLA分派やJEMは、新たな分派をつくったり、新組織を結成したりして、離合集散を繰り返した。07年10月、リビアのカダフィ大佐の仲介で同国シルトで再開した和平協議には、10派以上とされる反政府勢力のうち少なくとも6派が参加したが、SLAとJEMの主流派が欠席したため中断した。 ダルフールにはアフリカ連合(AU)の停戦監視団約7000人が駐留していたが、資金や機材の不足で十分な活動ができていなかった。治安の改善に向け、国連安保理は06年8月に最大3万人規模のPKO派遣を決議。派遣に反対だったバシル大統領が、中国などの説得で受け入れに転じたことを受け、07年7月、国連安保理は2万6000人規模のAU・国連合同のPKO「UNAMID」派遣を決議した。UNAMIDは08年初頭から活動を始めたものの、主体となるアフリカ各国の部隊の訓練や機材が不足しているため、完全に展開するには半年以上かかる見通しだ。日本は国連の分担金比率に従って、このPKOに初年度は500億円を支出する。 (望月洋嗣 朝日新聞記者 / 2008年)
 
 
<新見コメント>
 今アメリカ大統領選挙など書かなければならないことはたくさんありますが、以前から南スーダンへの自衛隊PKO派遣が「駆けつけ警護」任務を付与されると報道されています。しかし私には南スーダン情勢が全く分かっていないので、この文章を翻訳してみました。
 
今日も東京新聞(2016.11.15夕刊)で「駆けつけ警護来月可能に」「新任務付与 閣議決定」「安保法で初 南スーダンPKO」と1面全体を使って報道しています。しかし国連報告書でも「ジュバの治安は不安定」と書かれています。さらに国会に提出された「陸自報告書」も「項目欄以外は全て黒塗りになっていた」ことが明らかになりました。これでは南スーダン情勢を討論しようにもできません。稲田朋美防衛相は10月に南スーダンを視察していますが「安定しているなら、なぜ情報を隠すのか」と追究されています。安部政権は安保法を通した手前どうしても「駆けつけ警護」を付与したいようです。
 
この翻訳は、南スーダンをめぐってルポルタージュ風に書かれていますが、南スーダンがどういう対立情況にあるか少しずつ分かってきました。著者アントニー・ローべンスタインの文章は「アジア記者クラブ通信10月号」にも載っていました。通信の翻訳者はもっと長い文章もあるが、短い方を翻訳したと書かれていました。内容はほぼ似ているのですが、私は長い方の文章を翻訳してみました。
 
 ではどういう対立になっているのか。南スーダン政府を支援しているのはウガンダ、イスラエル、中国などで、反政府勢力を応援しているのはスーダンで、南スーダンでの対立はそれらの国々の「代理戦争」となっていると文中で書かれています。しかしここではアメリカの役割が書かれていません。
 
著者はこの文章の最後の方にニック・タースの本から次のように述べている。
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アフリカの54カ国の内49カ国はこの10年間で米軍が存在するか、米軍が何らかの関わりを持ってきた。それは間違いなく21世紀で最も大きな植民地計画の一つで、実際には誰もそのことを知らないのだ。南スーダンはこの計画の中心と考えられた。つまり南スーダンはアフリカ心臓部の頼よれる従属国であり、そこからアメリカが大陸における中国の増大する軍事・政治力に挑む基地となっている。ワシントンは中国のインフラ整備と資金計画に対して影響力を失ってきたが、何年か後に勃発した内戦以来、ワシントンにとってその戦略的重要性も小さくなってきた。アメリカがインフラ建設の支援や人権侵害や国家の腐敗への対応に失敗したことが、南スーダンの現在の不安定化において決定的である。
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つまりアメリカは中東における戦争に気を取られて、南スーダンを放置したのが混乱の大きな原因だ」と言っているのです。
 
またアフリカにおける中国の役割については次のように述べています。
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「中国アフリカ計画」の編集長であるエリック・オランダーによれば、中国の介入せずという長年のイデオロギーは南スーダンで試されている。彼が問うていることは「アフリカにおける北京の最初の戦闘用軍隊の派兵と共に、中国が活発にジュバの国内政治にかかわるようになった和平プロセスは、どの時点で平和維持活動から逸脱し、別の国の内政に介入するのか」ということだ。
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中国は内政不干渉の原則を維持してきたが、それも今後どうなるか心配されるということです。
 
この中国と米国のアフリカでの役割を明確に書いているのがポール・クレーグ・ロバーツです。以下は「マスコミに載らない海外ニュース(2016.10.13)」「フィリピンにおける体制変革」です。
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ユーラシア発展のための、中国の一帯一路という手法は協力的だ。全員のための未来を作るべく、全員が協力して働くというのが活動原則だ。これは、世界をアメリカ大企業の利益のために組み換えようというアメリカ政府の傲慢さより遥かに魅力的だ。
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次に疑問になるのが、南部はどのように独立したかということと、ダルフール紛争はどういう外部勢力がかかわっていたかということです。そこで「櫻井ジャーナル2016.11.8」に次の記述を見つけました。
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 スーダンでは内戦が1983年から2005年まで続き、11年に南部が独立している。この戦乱は石油が原因だった。1974年にアメリカの巨大石油会社シェブロンがスーダンで油田を発見したのだ。1990年代の終盤になるとスーダンでは自国の石油企業が成長してアメリカの石油企業は利権を失っていき、中国やインドなど新たな国々が影響力を強めていった。
 
 南部ではSPLM(スーダン人民解放軍)が反政府活動を開始するが、SPLMを率いていたジョン・ガラングはアメリカのジョージア州にあるフォート・ベニングで訓練を受けた人物。結局、南部は独立に成功した。国境の周辺に油田があるのは必然だ。
 
 スーダン西部にあるダルフールでも資源をめぐる戦闘が2003年から激化した。当初、欧米の国々は南スーダンの石油利権に集中、ダルフールの殺戮を無視していたが、ネオコンはダルフールへ積極的に介入した。その資源に目をつけた隣国チャドの政府が反スーダン政府のJEM(正義と平等運動)へ武器を供給したことも戦闘を激化させる一因。チャドの背後にはイスラエルが存在していると生前、リビアのムアンマル・アル・カダフィは主張していた。
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1974年にアメリカのシェブロンが油田を発見。アメリカは油田のある南スーダン独立をめぐって、を支援していたようです。しかもガラングはアメリカのフォートベニングで訓練を受けている。1990年代後半には石油利権を失っていったと書かれているように中国やインドの影響が大きくなります。それでも南スーダン独立は2011年ですから、ジョン・ガラング率いるスーダン人民解放軍を支援するアメリカが独立に大きくかかわっていたことが分かります。そして2003年のダルフール紛争には他の西欧諸国が無関心であるなかネオコンが積極的に介入したと書かれているので、アメリカの介入は続いていたようです。
 
なおこの翻訳は、最初日本語のみの翻訳ページ、次に対訳形式の翻訳を載せています。画像や地図はネットから取ってきましたが、最初の日本語のみの翻訳の方に載せて、対訳の方には入れませんでした。長い翻訳なので、どちらかを印刷して読んで頂ければいいかと思います。
 
うまく日本語になっていない部分がたくさんありますが、みなさまのご意見・ご指摘をお待ちしております。